トルコでの寄付活動について2 (寄付を通じて出合った人々) 

前回は、トルコの寄付活動で出合った"海と食事”について触れさせて頂きました。
今回は、寄付を通じて出合った人々について触れさせて頂きます。
後半には、トルコでの厳しい体験もあります。
しかしイタリアと同様に、トルコの決定と指示によって行われている事なのか?わかりません。
なので、無関係のトルコの方々はもちろん、無関係の国や特定の団体のイメージを損ねる事は望んでいないことをご了承いただけたらと思います。
アンタルヤでの寄付活動は、最初に海沿いの公園でさせて頂きました。
市内で買い物をすると食品も、生活用品も、ユーロ圏の国に比べると安いものが多 く、全体的な物価も高くありません。
とても生活しやすく、外国人の帯在者も多い様に感じました。
その為、現地の人々にとって、寄付額がやや高額である事は痛感していました。
しかし、そうであるにもかかわらず、観光地でも、 トルコ人の方が多く寄付して下さいました。
本当に一人一人の方への感謝の想いが 一杯になりました。
若い方も多く参加して下さった様に思います。
南米のペルーから旅行に来ていた若者達。
寄付の説明をすると参加して下さり、おつりも寄付しますと言って 再び旅を続けられました。
トルコの方々は、丁寧に説明に目を通してから、寄付して下さる方が多かったです。
中でもアンカラから来ていた学生の女の子は、日本語を勉強している事もあり、日本文化に興味がある様でした。
他のトルコ人の方に、「寄付の折り鶴が高い」と言われた後だったので、「少し高いかもしれませんが......」と言うと、「そんな事ありません」と言って、喜んで折り鶴を受け取って下さいました。
寄付に対する考え方によって違いがあり、 必ずしも年齢や収入によって寄付の価値が測られるわけではないと実感しました。
オールドタウンで寄付をつのらせて頂いた時には、ロシア人のカップル の方々がとても興味を持って下さいました。私も、ロシアやロシアの方々への興味や関心が高いので、嬉しかったのですが......。
ジプシーの少年が来て、折り紙の入ったパッケージを勝手に開けたり、照明を持ち去ろうとしたりという妨害をしました。
その為、カップルのお二人も立ち去らざるを得なくなりました。
本当に申し分ない気持ちになりました。
少年に止めてほしい!と伝えると同時に、私も今後はどの国の方にも同じ対応を心がけようと思いました。
しかし、意識しすぎて、次にアランヤでロシアの方が来て下さった時には、不自然なそっけない対応 になってしまいました。
アランヤでは、寄付の説明をすると去っていこうとした男性がいました。
とっさに私はこの人に教えてもらおう。
というインスピレーションを感じ、バスの時刻を質問しました。
そして帯在出来るホステルも知らないかたずねると、知らないとの事でした。わざわざ調べて下さったのでお礼に寄付のプレゼントを1つ差し上げようとしました。
すると寄付をして下さいました。私はご家族の分も受け取ってほしいと思い一緒に住んでいる方がいるか訪ねると息子と2人との事でした。
私は二つを渡して運命の番号を一緒に見てほしいと伝えました。
彼は数年前に奥さんを亡くされ、息子さんと二人暮らしと言われたからです。
ご家族の運命が幸運な方向に向かってほしいと思いました。
 
イスタンブールでも学生の女性が来て、寄付をして下さいました。
同時に警察の方も現れ、中止を求められたのでもう難しいかな?
と思ったのですが、警官は学生の女の子に「あなたが買いたいのならその分は買って下さい」と言われました。
警察の方に訪ねて寄付をしようとして下さった勇気に、心から感謝しました。
アランヤでもアンタルヤでも寄付をして下さる方は1人になってしまいました。
でもとても心あたたまる寄付でした。
ここまで人数が減ってしまったのは初めてだったので、不安になるかと思いましたが ''生かされている限り続ける''という想いは止まりませんでした。
不思議ですが、やっぱり私にとって生きる事は、このプロジェクトを前進させる事のみなのだと実感しました。
そして寄付の数に関わらず、多くの方々の支えによって生かされている事。
その感謝も深まりました。
水道の水を1つとっても本当に多くの人の尽力で使用出来ます。
私がこのプロジェクトを選ばず、日本の家にあきらめて帰っていたら、 私は自分の運命を環境や他の人のせいにし…
何もできず、ただ自暴自棄になって自分自身を慰めていたかもしれません。
しかし、日本に帰らない選択は、想像を絶する程、厳しい道のりでした。
それでもこのプロジェクトを続け、周囲や環境、そして 家族への感謝があふれている事は、私の魂にとっても、私のこの今の人生にとっても、良かったと思えます。
’’姉妹の冷たさは、他人以上だ’’と、 その時は苦しみを痛切に感じていました。
でもあれ程冷たくされなかったら、日本に帰り、ただ自暴自棄になっていたかもしれません。
今では全て、私をふるい立たせる為にしてくれた事だと心から思えます。
直接家族を助けられない事は辛いですが、その分一人でも多くの方々の支えとなる大聖堂の建設を、すべての国のすべての宗教の方々と共に、成し遂げていきたいと思っています。
トレコでは「他宗教と協力するユニバーサルな大聖堂の建設などに寄付する人はいないだろう。」
と何人かの人に言われましたが、ゼロではありませんでした。
それは、人々が、宗教の枠組みを超えていくような普遍的な愛を心のどこかで信じているからだと思います。
あるいは宗教が教えているから人を愛するのではなく、人間の本性として、本能的に潜在的な意識の中に、ゆるぎない愛を持っているからではないかと思います。
先日の夜、私はイスタンブールからブルガリアのソフィアにバスで向かいました。
しかし深夜に国境でバスから降りる様にと言われてしまい、荷物を持って降りました。
警察の方は、私のサインを受け取ると「免税店で朝を持ち、バスでイスタンブールに戻るように」と言いました。
しかし、午前2時で寒さは増します。
免税店内は人が少ない為か、寒くてトイレの水も冷たく、寒さが体に染みてきます。
店員さんに想談しました。
店員さんが自宅に帰る時に、近くの駅まで車に乗せてもらえないか?とも考えたからです。
しかし私を見た瞬間に目をそらされることが多く…
信じがたい事でしたが、まるで事前に指示されているかのように断わられました。
そしてある定員さんが、「イスタンブール側の警察ならもっと良い対応をしてくれるかもしれない。」と、行く事をすすめてくれました。 
私は朝が近づいた時、歩いて向かいました。
警官が「信じて下さい。 イスタンブール行きのバスに乗せてもらえる様に手配しますから。」と言ってくださいました。
ところが 待っていても一向に知らせがありません。
見に行くとその警官は帰られていました。
他の警官に訪ねると、「自分でバスの運転手にたのむように。」と言われました。
しかし断わりを受け、必死で個人の車の人々にもお願いしました。
1人の人が受け入れてくれそうな時に、係の警官が私の行動を止めました。
「この先のイスタンブールの方向まで歩いていき、そこで探す様に。」との事でした。
泣きながら私は1人で3km程歩きました。
希望を失いそうな時、地元の警察の方々に出合い、イスタンブールの中心まで行く方法を訪ねました。
トルコを出国 はようとしていたのでトルコのお金もわずかしか残っていません。
イスタンブールまでバスで約5時間...。
地元の警察の方にまでは、私への対応が指示されていなかったのか…
彼らは通りがかったトルコのバスの運転手さんを説得して、無料でバスに乗せてくれました。
さらにバスの方々がレストランで朝食を取る時に、私まで呼んで下さいました。
私に食事をわたしてくれた女性が、かわりに自分は食べずに戻ったのではないか?
と思うと気になって仕方ありませんでしたが、どこに行ったか分かりませんでした。
また私がリラを持っていないと聞くと、現金を下さった方もいました。
私は奇跡的に凍死する事なく車で5時間の跡離を引き返す事が出来ました。
到着すると、私はお世話になった方々に寄付の折り鶴のプレゼントをしました。
国境で凍死するか 病気になっていてもおかしくはなかったので、感謝の想いは止まりませんで した。
そして、人々は、宗教で決められているから私を助けたのではないと感じました。
もちろん宗教の影響も、トルコでは大きいと思います。
90%以上の人が信仰を持っていると聞きました。
しかし宗教という事を超えて…
人間として国境の寒さの中で、1人の外国人を見捨てなかった警察やバスの運転手さん、バスの乗客の人々の優しさは、心あたたまりました。
「に入国禁示なのに行こうとした」という事で、ある程度覚悟はしていました。
でも死ぬ事はないと思っていたのです。
そしておそらく、ここで出合った人々だけでなく、世界の多くの人々がその様な愛の価値感を持っていると思います。
それは宗教の枠組みを超えたユニバーサルな人類の不遍的な愛の価値感であると思います。
この共通意識が、人類の潜在意識の奥深くに眠っています。
それを互いに目覚めさせ、人々と力を合わせて形あるものとして具現化し、大聖堂建設を実現していきたいと思います。
互いに目覚めさせるとは、本来、神に与えられた本性に戻ることです。
大人になるにつれて身に着けた欲望や執着を捨てて「神の愛そのもの」になっていくことです。
その様な国や人々と共に「宇宙時代を開く神の愛の循環」を起こしていきたいと心から願います。
そんな心意気やスピリチュアルな感覚を持っていないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、そうではありません。
人間は本来霊的な存在だと言われています。
ただ幸福や平和を求める気持ちがあるだけでも、スピリチュアルな感覚を持っていると言えます。
なぜなら私たちは、この世界に赤ちゃんとして生まれる前に天国のような霊界から来ています。
本来の幸福な世界を知っているからこそ、この世界の苦しみや不幸を避けたいという気持ちが自然に湧きます。
幸福や平和を求める国や人々と共に「宇宙時代を開く神の愛の循環」を起こしていくことができましたら幸いです。
そして今日も、あなたの幸福を心から願っています。
Photo: by Pixabay
このページの写真はPixabayのイメージを使用しています。


*掲載されている内容の一部及び全部の無断転載・複製の利用は固くお断りします。
*Copyright 2025 ELvision.inc ,All Rights Reserved.